夢 鏡 (お侍 習作126)

         〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


        3


 障子戸の外では こぬか雨の淑(しめ)やかな雨音が連綿と続いていて、静かな耳鳴りのように夜陰を覆う。雨をもたらした温気のせいか、それともまだ意識の芯が夢半ばな状態であり、感覚がぼんやりとしているからだろか。さほどには寒さを感じぬまま、柔らかな静謐の満ちた薄暗がりの中、すぐ傍らへと座した古女房の白いお顔を、寝床から見上げている勘兵衛であり、

 「確かにね、
  いくら勘兵衛様が筋骨丈夫な斬艦刀乗りだって言ったって。
  そうまで高い崖から、しかも不用意に転げ落ちてしまわれて、
  どっこの骨も折らずの無事でおいでとは、思えないのが普通の反応でしょうよ。」

 夜陰だからか、それとも相手の気怠さへ障らぬかとの気遣いからか。掠れる寸前というところまで低めた静かな声音で、七郎次は勘兵衛から請われるままに、彼が久蔵によって担ぎ込まれた折の様子を語ってやっているところ。声を低めていることへのついで、その身を傾け、間近になるよう寄っているせいか、相手の温みや匂いも届く。いかにも清涼な軽やかさの上へ、少ぉし小洒落た甘い匂いもするのは、同じ空間に居合わせることの多いあの美人な妻や太夫らから移った、いわゆる脂粉の香だろうか。
「…。」
 何しろずっと眠っていたも同然なので、居並ぶ状況から蛍屋に運び込まれたという事実への理解はあったが、それでも…鄙びた村の村外れ、荒れ果てた山道で野盗を相手に刀を振るっていたはずが、目が開いたらいきなりこの彼がこうまで間近にいるというこの現状が、何だか不思議な感触がしてならない勘兵衛であり。この彼が生命維持装置ごとこの屋の女将に拾われたおりも、このような不思議な感覚がしたのだろうか。そんなやくたいもないことを つと、頭の隅で思っておれば。

 「ひびがいっていたかも知れぬ肋骨に響かぬようにと、
  あの双刀を抱えさせて、運んでくれた久蔵殿だったのですよ?」

 そうやって傷めていた肋骨を庇わせて。肩へと負った重さや痛さがそのまま、独りであたっている事態への、いかに重くて心細いかへ転じかねなかっただろうにね。それらへの負の想いが暴走しないうち、一息に此処へまで駆けて来てくれたのだと、詳細を事細かに告げた七郎次は、

 「何十年も前とさして変わらぬ身だから、
  多少の無理なんてへいちゃらだなんて思われちゃあ困ります。」

 そんな言いようを付け足した。久蔵がこぼした言いようではなく、明らかに彼自身の感慨であり、
「何十年は言い過ぎであろう。」
 ほんの10年前までは、冗談抜きに大空翔っていた軍人だった身。砲弾の飛来をも掻いくぐり、文字通り生と死の狭間での綱渡り、生身のこのままで演じておったのだぞという言い分をも含ませての、ただ端的に言い返した御主だったのだろうけれど、

 「何を仰せか。
  久蔵殿がどれほど悲壮なお顔になって、担ぎ込んだか判っておいでですか?」

 彼のお顔をよく読める自分でなくとも、息を飲んでの驚いただろうほどくっきりと。不安げに青ざめ、震えてさえいた彼であり。すがりつかれた手の震えの、なんと愛おしい可憐さだったことか。ええええ、そういえば。あの天主との合戦の後日に、腕の調子が悪くなって熱を出した私を、ここへと運び込んだのも久蔵殿でしたっけね。その時以上の青ざめようだったって、雪乃が言っておりましたよ?

 「あの細い体で、大柄な勘兵衛様を 文字通りの肩の上へと担ぎ上げて。」

 式杜人らが用立ててくれた高速艇へと乗り込むときだって、誰の手も借りずのしゃにむな様子だったそうですし。此処へと着いたおりだって、私が駆け寄るまでいっときだって降ろそうとしないまんまの仁王立ちだったのですからね、と。状態の落ち着いた今だからこそ頬笑みながら語れる、あのうら若き剣豪殿の一途さを。何と情のあったことよと、うっとり愛でるように紡ぐ七郎次であったりする。




     ◇◇◇


 確かに、あの大戦で斬艦刀を乗りこなしていた遊撃部隊、生身の体で穹を翔けた白兵戦部隊のもののふは、普通一般の人々よりもかなり頑丈な体躯をしている。半端ではない気圧の高層で、途轍もない加速風に押されながら、命を賭してただならぬ働きをこなせなければ生きていられぬ極寒地獄。そんなとんでもない戦場に放り出されて、重い太刀をば振り回し、鋼の敵を切り裂く存在は、まさに魔人と呼んでもいいほどであり。とはいえ、そんな躯や体力を、いつまでも同じものと思っていられちゃあ困るという、七郎次の言いようもようよう判る。かてて加えて、あの渓谷には瘴気も噴き出すという余計なおまけもあったがため。そこへと落ちてしまった勘兵衛から、なかなか応じが返らぬことへ、久蔵が焦ってしまったのも無理のない話。こたびの仕儀を打ち合わせたその折も、谷へ転げ落ちるのだけは用心しろと連れへ重々言い聞かせた当の本人が何をしておるかと、焦れたその末に自分も飛び降りて来た久蔵であり、

 「島田っ!」

 自分の耳目で確かめたいからと、それこそ正しく矢も楯もたまらずという勢いで、制止の気配も振り切って断崖絶壁を飛び降りて来た赤衣の剣豪。途中で故意に岩壁を蹴りつけることで落下の加速を調整し、着地の負荷を軽減させたうえでの到着したそのまま、仰のけに倒れている勘兵衛の傍らへまでを駆け寄って。自分のまといし紅衣の、長い裳裾をさばく手間もあらばこそ。詰め寄るようにすぐ間際へと膝を落とすと、精悍な頬に手を添え、素早く視線を走らせてあちこちを見回し検分にかかる。
「……。」
 転げた末に土で擦ったようなひどい汚れや痕跡は、ザッと浚った顔や手足、衣服にもさして見当たらなかったから。彼もまた落下途中はそれなりに何とかバランスを取ったその末、受け身もちゃんとこなせたらしいことは察せられたが。こうまで間近で名を呼んでも、頬を撫でても…やはり微動だにせぬほどの昏倒は解けないままだ。無心な表情は苦しげではなく、むしろ穏やかなそれだったが、

 「…っ。」

 怒鳴ったその途端にもまずはと感じた、匂い以上の威力も持つらしき刺すような腐臭が、しだいに濃度を増しながら、喉や気管へ襲い掛かって来る。これを吸っての昏倒ならば、尚更にこんなところにまごまごしている場合ではないと。思ったそのまま、その身も速やかに動いており。頬からずらした手で胸板をまさぐってみて、痛がる反応がないところから重い骨折はないと断じると、

 「こらえろよ。」

 自分よりも一回りは大きく屈強な壮年の体躯、体術の応用で一気に抱え起こしての肩の上へまで担ぎ上げ。眼前のほぼ垂直な岩壁へと高々と跳ね上がっての取りついて、一気呵成、途轍もない素早さで駆け上がっていった久蔵だった。




     ◇◇◇


 大急ぎで里へと運び込んだ勘兵衛は、呼びかけても揺すっても依然として何の反応も示さなかったことから、皆からもその生死が案じられたが、
『…っ。』
『あっ、久蔵様、何を…っ!』
 ふと 何かしらへ気づいたように、久蔵がその分厚い胸板を 広げた手のひらでどんと叩くと、途端に咳き込むような吐息をついた勘兵衛であり。あの谷底に至ったと同時、周辺に満ち始めていた瘴気を感じ取り、吸い込まぬようにと呼吸を押さえたものの、体を打ちつけた衝撃にも襲われてのこと、息が詰まったまま昏倒してしまったらしいと知れた。事情が判れば呆気ないことだが、それでもそこまでの気の張りようからの落差があまりに大きかったせいだろう。何とか正常な息をし始めた壮年殿の、分厚い胸元へと載せた手を、なかなか降ろせなかった久蔵だったほど。一旦は安堵したものの、不安な要素がまだまだ居残っていたからで、

 『………。』

 見たままの無事かどうかは、専門外な彼には断じることも難しく。息こそ吹き返したが、依然として意識が戻らないのがどうにも気に掛かる。毒性の高い瘴気らしいことは自分も吸ってしまったからこそ理解でき、中和なり何なりの手当てをせねばならぬものかも。だが、そうなると誰に診せれば良いものか。
『…。』
 昏々と眠り続ける連れ合いを見やりつつ、彼が取った策はと言えば、手持ちの電信器で大胆にも式杜人への連絡を取ると、最も高性能な高速艇の手配を頼み。出先の辺境からこの虹雅渓までという長距離を、恐らくは現世の最速で縦断して担ぎ込まれた勘兵衛だったのだと聞かされて、

 「…それはまた。」

 成程、それもあっての“目を開けたら別世界”だった訳である。いまだ体が重いのは、瘴気の影響が多少なりとも居残っているからで、こちらで診察を請け負ってくれた玄斎医師が言うには、体力や運動能力が年相応以上なのが悪いほうに祟ってのこと、元気すぎる肺活量が思い切り毒素を吸い込みもしたらしい結果だとか。
『ま、それを言うなら。普通の壮年だったなら、何日も寝込まにゃならねえところだが、この御仁なら一晩でけろっと快癒しちまうことだろよ。』
 新陳代謝も桁外れなので、案じることはなかろうよと、なかなか豪気な診断を処しても下さったのではあったけれど。今へと至るあれこれを、ザッと浚っての聞かされたご当人の感慨はといえば、

 「そこまでして拾い上げる命でもなかろうに。」
 「…勘兵衛様、それって一番つや消しなお言いようですよ?」

 可愛げのないお言いようは、予測の範疇。逆に言やあ、何て罰当たりなと怒るまでもないことと、やれやれと肩をすくめて苦笑をこぼした七郎次だったのも、相手が元・上官だったからじゃあなく、そのくらいのことを言い出しそうなお人だとの予感、お約束以上の確定要素として頭のどこかで準備があったからだ。

 “…まったくもう。”

 大戦のころから既にもう、自分は枯れた身、先なぞ無かろう。だから、構わず捨て置けなどというつれないお言いよう、しきりに口になさってた困ったお人でもあって。ああそういえば、一度だけ、この自分もこのお人を担いで本陣まで戻ったことがあったっけ。味方が逃げ切るまでとの“おとり”の役をかって出て、敵の哨戒機を引き付けて振り回す、巧みな撹乱飛行を繰り広げていた斬艦刀を、ついには撃墜されてしまってのこと。土砂降りの冷たい氷雨の中、泥を吸って重い外套がどんどんと温みを奪ってゆくのを歯を食いしばって耐えながら。自分はどうなったって構いはしないが、このお人だけは生かさねばと、感覚のなくなった手足をもがかせて、遠い最前線からの道なき道を、二日二晩かけて踏破した。

 “あの時は こっぴどく叱られたなぁ。”

 そのような無謀をしてと、凍傷で手足が損なわれていたらどうしたかと、
『儂ごときの格の司令官なぞいくらでも替えはおるわ。』
 意識が戻っての開口一番、そんなとんでもないことを言い放ち、人を愕然とさせといて。そのくせ、いつだって“生きて戻るが一番の誉れ”とお言いだったし、御主以上に替えのいるだろ、まだまだ若輩だった自分を何度も何度も庇っては助けてくださりもした、何ともデタラメなお人だったっけ。とはいえど、

 “どうしてどうしてvv”

 そうまで自分を省みないお人だったはずの勘兵衛にも、ささやかながら嬉しい変化があったので。まま、こたびは叱って差し上げるのも無しということで…と、胸の裡
(うち)ではやばやと、騒いでやまぬ 甘いくすぐったさを押さえ込みつつ、

  「久蔵殿が言うにはね。」

 七郎次が、叱る代わりにと囁いたのは…久蔵殿の無茶の理由
(ワケ)

 「そりゃあ穏やかなお顔をなさってたのが腹に据え兼ねたのだとか。」
 「???」

 此処へと運び込まれた勘兵衛様のお顔が、眉間にしわを寄せた随分と気難しそうないつものそれだったので。だから安心なさいと言ったのですがね。あちらの里を出るときはこんなお顔じゃあなかったって。谷底へ落ちたのを見下ろしたそのときも、式杜の里から迎えにと、出してもらった高速艇へ乗り込んだそのときに見たお顔も、これまでに見たことないほど安らかなお顔だったから。それで却って不安でしょうがなかったって。

 「…あやつが そのようなことを?」

 苦悩に塗り潰されたような顔ではなく、安んじているような穏やかな顔をしていたのがどうにも歯痒かったと。この七郎次に『小難しいお顔でいるからきっと大丈夫だ』と言われ、やっとのこと安堵の想いに至った彼だったらしいと聞かされては、さしもの勘兵衛だとて複雑な境地になるものか、

 「確かに、無事かと掛けられた声を聞いて気が緩みもしたのは事実だが…。」

 あの瘴気満ちた谷へと落ちた折、自分のしでかしたあまりな失態に恐れ入ったと同時、ああ 久蔵は無事だったかと、それをこそ心から安んじたというのにね。そのお顔が不安を呼んだと言われては立つ瀬がないか、何だか複雑そうなお顔をなさる。くくっと微笑った七郎次が、何故またそんな…久蔵の心の内を彼に断りなく囁いたかといや、

 “ずっとつれなくなさっておいでだったものが、
  あのような かあいらしい素振りをなさるんですもの。”

 先程、ようやっと意識が戻ったそのおりに、彼が一番最初に案じたのは何だった? 此処がどこだか、傍らに控えているのが誰だかと、何とはなくに現状を受け入れながら、その意識が冴えた途端に、久蔵は?と真っ先に口にした勘兵衛ではなかったか。昏倒する寸前の事態を勢いよく思い出したからだとしても、状況や経過ではなくて、あの練達の安否を訊いた彼であり。まずはと久蔵を案じたのは、自分へ連なる存在として強く認めておいでだからではないだろか。誰が相手でも自らへの関わりを忌むべきことと決めつけて、頑ななくらい独りで居ようとなさってらした。誰にも捕まえることの叶わぬ、風のようなお人。そんな在りようだったものが、あの双刀使いの若いのと旅立ってからこっち、お逢いするごとに そりゃあ温かみのあるお顔になられておいでだ。これといった大事もなくての安穏としたひとときほど、物静かに構えての穏やかに、人の話を聞くばかりであったお人だったものが。水を向ければ訥々と…このごろでは興に乗れば滔々と、連れ合いの青年がいかに拙くも可愛らしい悪戯をするものか、聞いてくれる相手ほしやでいたのがありあり判るよな、所謂“惚気”なんてものを紡いだりもする変わりよう。そんな変化を、ご自身では まだまだ全く気づいておられぬのだろうか。

 “……まま、それはじっくりと、
  ある日突然 自覚していただいた方が、味わいもひとしおってもんでしょうが。”

 明けても暮れても人を斬ることしかなかったような、あの途轍もない狂気の時代を、それでも精一杯に生きゆきて。必死にあがいて生き残った顔触れの中、最も誠実だったがためにあれもこれもと背負わされ、つらい目ばかりを見た人が、馬鹿正直であったがゆえ、今の今でも悪夢ばかりを背負っておいでだなんて、あんまり理不尽すぎるじゃないか。

 “もうそろそろ、ご自身を甘やかしたって罰は当たらないと思うんですがね。”

 そして、そのためだったなら。勘兵衛自身から叱られたって構いはしない、お節介でも差し出口でも、何でもしでかしてやろうじゃないですかと。こちらも相変わらずに頼もしい元副官殿、自分にしか出来ないだろう尻たたき、頑張って務めさせていただきましょうぞと、楽しそうに微笑っていたりするのである。さあさあと淑やかに囁くは こぬか雨。確かに現
(うつつ)のこのひとときさえ、一夜の夢と見送って。贖(あがな)うのではなく求めの手を延べ、歩き始めた御主の背中、冬晴れの明日へと見送ってやりたい七郎次だった。










   おまけ


 何を話していたかまでは聞こえなんだらしくって。だからこそだろ、隣りの間への襖がそろそろと動いて。寝間の傍らに小さめの有明が灯された、次の間との仕切りが大きく開いた。こうまで近くにいるのに隔てられていることをもどかしく思ったか、それとも…低い声で交わされていた会話へと、聞き耳を立ててしまいそうになる自分が居たたまれなかったものか。ちょっぴりお行儀の悪いことながら、寝間の上から斜めに身を乗り出してという少々しどけない格好で。襖の枠木へ指先かけて、じりじりと引き開けることで、自分も起きておりますよと示して見せたは、そちらで寝ていたはずの久蔵であり。

 「おやまあ、起こしてしまいましたかね。」
 「〜〜〜。(否〜〜)」

 七郎次が済まながるのへは、軽やかな金の綿毛をふりふりと揺すって かぶりを振って見せたけど。身を起こしかねている壮年殿の様子を、まだ具合が悪いのかしらと案じたか、首を伸ばして眺めようとするのがあんまり稚い仕草であったものだから、

 「さて。
  お起きになるまではと、寝ずの番も辞さない覚悟でいたのではありますが、
  こうまで無事にお目覚めになったなら、もはやその必要もありませんやね。」

 ちょいと幇間めかしての、お道化た言いようをした七郎次。優しい造作の目許に据わった青い双眸、柔らかくたわめて にっこり微笑うと、
「朝までまだ間がありますんで、アタシはひとまずの仮寝をさせていただきますね。」
 いやなに、不規則な寝方は常のこと、堪えちゃあいませんのですが、

 「あとは久蔵殿にお任せした方が、無難でもありましょうしvv」

 だってねえ? 起きたらすぐにも言って差し上げたいことだとか、あったんじゃあありませんですか?と。くすすと微笑って“それじゃ”と立ち上がったおっ母様に。出来れば同座していてもらいたかったか、寝間のうえ、居住まい正して座り直しつつ、くぅんと言いたげな眸を向けて来た次男坊だったけれど。励ますような笑み向けられては、一人で頑張る他はないようで。

  「………。」
  「……。」

 久蔵がいた部屋を突っ切り、その奥に閉ざされてあった廊下への襖、なめらかに開くと、も一度の会釈を残して母屋へ去った七郎次であり。再び閉ざされた襖を、肩越しに見やっていた久蔵が、そんな自分への視線に気づいて、お顔を部屋のほうへと戻せば。

 「…無事か?」
 「…。(頷)」

 今さっきまで交わしていた会話の、その詳細までは聞こえていなかったというのなら。自分なんぞの煤けた命、助け上げずともよかったのになどという罰当たりな一言も、聞こえてはいなかったものと思ってよかろう。それが証拠にと言ってもいいのか、彼がどれほどの必死な様子で此処まで駆けて来たのかの説明、勘兵衛が聞かされていると知ったなら。もちっと含羞むか、若しくは 照れ隠しが嵩じてのこと、ふんと膨れるかしているはずであり。そのどちらでもない辺り、そういう話をしていたとは聞こえていなかったらしいことが知れるというもので。

 「………。」

 敷居の向こうという遠くにいるのも何なのでと、寝床の端に避けて畳まれてあった綿入れを手に取ると、寝間着代わりの小袖をまとった細い肩へと羽織りつつ、すっくと立って奥の間のほうへと進んで来る。薄暗がりの中、小袖の白とそれから、彼自身の頬や耳朶、おとがいの線や、斜めに胸元へと降りての重なる衿元から区切られて、あらわになっている首元の肌の白さが。まるで自分から、清かな光をあたりへ滲ませているようにも見えていて。枕元へと至ったそのまま、さっきまで七郎次がそうしていたように、そこへすとんと座った久蔵。自分の歩みをじっと眺めていた勘兵衛を、起きぬけにしては潤みの増した眸で見返すと、不意にその身を少し傾け、両の手を膝の前辺りへ突いて、お顔をこちらへと寄せて来る。

 「久蔵?」

 こちらの部屋にも有明は灯されてあり。白い和紙の囲い越し、柔らかな明かりが若い連れ合いの頬の輪郭をぼやかすように照らしていて。けぶるような見栄えのそのまま、慶雲もかくやというほどの ふわふかな感触のする綿毛の前髪越し、上等な玻璃玉のように澄んだ赤い眸をじっとこちらへ向けていた彼だったが。
「…。」
 無言のまんま、右の手をつと持ち上げると。こちらを見やる壮年殿の、堅く張った頬のうえ、そろりと伏せてゆるゆると撫で始める彼であり。

  「心配ばかりさせおって。」

   おや。

  「もう若くはないのだからな。しまいには隠居させるぞ?」

   おいおい。

 平和で安泰な世に、もののふは不要。そんな事実が重々判っておればこそ、身の不遇さへの当たりどころも見つからず。ますますつのった憤懣抱え、まるで病犬
(やみいぬ)の八つ当たりのように、侭ならぬことへと苛立ち、挑発的になっての周囲へ当たり散らして憂さを晴らしているような小者と大きく異なって。そりゃあ静かに納まり返っている泰然とした落ち着きが、威容の厚さと相俟って、その人性の奥深さを悟らせる。勘兵衛ほどに年経た人物ならともかくも、この若さでそんな威風まで身につけた剣豪は、だが。人としての生きようにはあまりに不慣れな“幼な子”で。

  ―― そんな彼を、
      初めての情動で弾いての歩み出させたのが、勘兵衛だったから。

 彼なりにそりゃあ心配しもしたろうし、思い返せば、同じことばかりを繰り返してはいませんかと、今になって…これでも学習したらしく。一人、案じていたその間に、色々とたくさんのことを考えもしたらしいその結果、形になった言葉は以上の代物だったということか。子供が大人の真似ごとをしているかのように、見えるし聞こえるあれこれだけれど。自分以外の誰かというもの、斬るに値するかどうかではなく、一緒に居たいかどうかという物差しでも測れるようになった彼からの。案じてやるという対象になれたのは、とっても光栄なことだと思うから。心からのいたわりの想いを込めて、頬を撫でてくれている幼子へ、深色の眼差しを甘く細めて、小さく微笑い返して差し上げた壮年殿であったりし。

  「………何だ。何がおかしい。///////////」←あ
  「いやなに。
   隠居させられたなら、刀も取り上げられてしまうのだろう?」
  「当然だ。」
  「ならば、勝負は出来ぬようになるなと思うてな。」
  「………それは、そのとき考える。」


 さては忘れていたな、とは。誰もが感じたうっかりだけれど。どうか黙っててやって下さいましねとは、おっ母様に代わって筆者からのお願いです。





  〜Fine〜  08.12.03.〜12.10.

←BACKTOP



  *ね? そんなに大層なお話じゃあなかったでしょう?
(こらこら)
   何かどこか足らない者同士の旅ですが、
   どんどん人間臭くなって行く久蔵さんなのと並行して、
   こちらさんも人間臭さを取り戻してく勘兵衛様なんだろなと思いましてね。

   人間臭いと言えば、
   先日どこでだったか、あれほどの練達でありながら
   でも実は無茶苦茶ノーコンな久蔵殿というのを拝見し、
   思わず声を出して笑ってしまってました、はいvv
   そういうところがあると楽しいですね。
   しかも意外な形で判明するのがいい。
   豆まきしてみたら、どういう訳だか鬼の役にはちっとも当たらず、
   周囲の人々へばかり、それも加減を知らないのがびしばし当たる。
   どこのワイドレシーバーさんですかというほどの、救い難いノーコン。
   (そういや、蛭魔さんは蹴る方でノーコンじゃなかったか…。)
おいおい
   人生がノーコンなおっさまに任せてていいのか、純粋培養…とか思っての、
   こたびのお話だったのですが。
   終わってみれば いつもと変わらぬ、単なる惚気話だったかもですね。
(う〜ん)

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv

ご感想はこちらvv(拍手レスも)

戻る